私たちの小さな会は「岩室の会」と名づけられております。 

 実は、会の発起人や賛同者たちが集まり、何度目かにバスでこの地を訪れたとき、もう20数年以上も前のことになりますが、そのメンバーの中の変な外人、うちの会長N氏によれば、大阪万博の国際美術展のさまざまな書簡、原稿などのフランス語訳、あるいはその校閲などの仕事をしていたフランス人がとつぜん、こう発言したのです。「近頃はやりの変な外国語の名を、この会や会の施設につけるのはいやだな」と。碓かに、変に横文字と日本語が接ぎ木される時代でした。一般の外国旅行にまだまださまざまな規制があったとき、どこよりも早く「農協さん」が旗を立てて外国を押し渡った時代で、奇妙でこっけいな名称があちこちに見られました。

 そこで、もっとも単純な、かつ明瞭な土地の名が選択されたのです。つまり、郵便が届く地名、新潟県東頸城郡浦川原村岩室から最後の2文字です。

 その後、このあまりに単純な命名の代りに、間もなく建築予定の中央施設には、会長、副会長両氏の名をよじりあわせた 山荘という名が用意されました。山は日本中を埋めつくす山、山荘ですが、 (てい)の字は御本人の高橋一氏によれば、古今東西たった一冊の辞書にしか見つけられないということです。ほんとうかどうかを調べるほど閑人はおりませんから、御本人のおっしゃることを信じるしかありません。

 ただ毎度少し気にかかるのは、会報その他、事務所で出す書類、封書、パソコンなどにきちんと「」の字が取りこまれているかどうかです。たいていの場合落第なのです 。 「これだけ長くつき合っているんだから、ぼくの名前くらい特注でつくってそれを使って欲しい」という声が聞こえます。しかし、意にも介さない方々もたくさんいらっしゃるようです。

 それから、これも最初に注釈すべきでしょう。「岩室」という名をもつ土地、しかももっと有名な、もうひとつの「岩室」が新潟県に存在することです。かなり旧聞に属しますが、芸者大学なるものが設立され、観光産業振興の一助にしようとする施策がとられ、その卒業生のなかでも成績優秀者が岩室温泉に採用されているという話がありました.

 残念ながら、この有名な方の岩室についての実地の見聞を筆者も、おそらく大多数の会員の方もしておりません。しかし、岩室という言葉の語感から、たとえば冷たい透明な水の涌き出す洞穴のようなものを想像する方がいらっしゃったとしても、そしてその 方々 が、芸妓より「酒」と短絡的に連想されたとしても、それをとがめることはできません。その推測は半ば以上の事実で、私たちの領土となるべき山塊の下方には、2、3の酒造元があり、その見学という名目での利き酒の会は、年中行事の一つになっていますから御安心下さい。

 ところで、話を元に戻して、本来の「岩室」の名称について簡単に説明しておきましょう。

 識者によれば、あるいはもっと精確にいうなら、「万葉集」によれば、「岩室」という言葉は、土で塗りこめた部屋、冬期の厳しい寒さのなかで、それに耐えうる最低の暖かさを守るため、大昔の家々がそなえていた、土で塗りこめた部屋を指すらしいのです。

 実際、土地に先住されていた方々の話を何度も聞いたことがありますが、冬期はたいへんな困難を強いられたそうです。

 厳冬、積雪が襲ってくると、小中学校に通う子供をもつ家では、何人かの当番の大人が、早朝というより夜おそくに、たとえば深夜2時頃に出かけていって、雪の山道を点検し、歩きやすいように整えます。その後、今度は早朝、子供たちが集まり、高学年の生徒を中心とし、やはり当番となった父兄がつきそって、通学の山道を辿ったといいます。

 この地に私たちの自由な世界をつくろうとしたのは、せいぜい25年前のことです。

 小さい小さいといっても、それに、さほど自慢できる特性もそなえていないということも否めませんが、それでも、心の持ちようによっては、一国一城の土地です。世界 で一番 小さな独立国はヴァチカン市国で、面積0.44平方キロ.私たちの借用地は、実測0.22平方キロ、目立つほどの 違い じやありません。ヴァチカンの次と考えれば、かなり豊かな気持となるのではありませんか 。

 そんな土地があるので、なんとかならないかという情報が会長氏のところに突然のように舞いこんできたのは、当時、会長氏と何やかやと交際のあった新潟市の若い書店主氏 の知らせでした。

 さて、このあたりから、本格的に「岩室の会」の創生記に入ります。いくつかの問題を明確にしておく必要があります。

 まず、現在の会員の大半が新潟県出身者ではなく、東京その他が大半を占めるのに、何故、新潟なのかという疑問です。

 実は、本会の会長氏は、昭和19年から22年まで、新潟市の旧制新潟高校の学生だったのです。

 氏にしてみれば、新潟にこだわる理由が充分にあったということらしいです。その充分な理由に関しては、数年前、会長が私家版として上梓した回想録「私たちは、私たちの世代の歌を持てなかった−ある美術史家の自伝的回想 − 」 (生活の友社)を読んでいただければ、 少くとも何故それほど新潟かという疑問について、ある程度御納得いただけると思います。

 たとえばかなり戦後のことになりますが、新潟県東頸城郡で、大々的な土地改良事業が 厖大 な国費と人力を投じて実現しますが、その発端を担ったのが、戦時下の学徒勤労奉仕の一環として派遣された会長氏の属する一隊の過酷きわまる作業だったと、氏は固く信じているのです。
 

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